ギャンブルの毒を知らない人たち
2015年4月に自民、維新、次世代の3党が衆議院の解散で一度は廃案となった国内カジノ解禁法案を再度衆議院に提出しました。
自民党の細田幹事長は記者会見で21世紀の日本は観光で所得を上げなければならず、さらなる観光振興にはカジノを含む大規模な複合観光施設が必要だと語っています。
おそらくギャンブルを知らないのでしょう。
知っている人ならば上記のような説明にはなりません。知っている人が上記の説明をするなら、それは知らない人をあざむく言葉です。
その例外を除いて『知らない』ということにしておきます。
ギャンブルの起源は貨幣の起源と時を同じくします
貨幣経済の誕生の前に物々交換経済の段階があったのだろうと思いますが、そんなにタイムラグはないと思います。
物々交換によって価値が生まれます。
山に住む人は海のものが欲しい
海辺に住む人は山のものが欲しい
物が人から人に相互に移動することで価値を生む。これが盛んに行われることで社会経済が発展していくのです。貨幣を媒介とすることで交換の効率が飛躍的にアップします。
貨幣の本質=運動とヒトの習性
目まぐるしく行われる価値の交換は目に見えませんが貨幣の動きとして可視化されます。貨幣の本質は運動なんです。
我々ヒトはどういう訳かこの運動が好きなんです。小規模な自給自足経済から現代の経済が発展したのは、一人一人がより速く、より多くの価値の交換=運動を欲したからなんです。
価値の交換=運動を盛んにすることで価値が増幅していくことが気持ち良い=快感なんです。
これは他の動物には無い習性です。
ギャンブルの本質=価値を伴わない運動
ギャンブルに貨幣は不可欠です。点棒やコインやパチンコ玉は貨幣ではないですが貨幣を擬制してるんです。本質は同じです。
ギャンブルにおいても貨幣が運動(行き来)します。しかし問題はこの運動が価値を伴っていないという点です。
ヒトの習性は価値が伴っていない運動にも熱中してしまうのです。
ギャンブルの貨幣の運動の本質は『運』です
『雀聖』と言われギャンブル界のカリスマである作家の阿佐田哲也氏の名言にこういうのがあります。
麻雀を点棒のやりとりだとしか思えない人は永遠に弱者である。麻雀は運のやりとりなのだ。点棒の流通は誰にも見える。が、運の流通は見えにくい。だから多くの人が無視する。
『麻雀』という言葉を『経済』に言い換え、『運』という言葉を『価値』に言い換えれば前半の内容にカブりますね。
法が賭博を禁止しているのは、このような貨幣の流通が価値を生まず、社会経済にデメリットの方が大きいからです。
かつて、麻雀が爆発的に流行した高度成長期の一般的な麻雀クラブのレートは千点100円、今はむしろ千点100円でも高い方です。
当時の大卒初任給は4万円位ですから、一晩で月給を失う(又は得る)くらいのギャンブルを普通のサラリーマンがやっていた訳です。
高度成長期なんて、ついこの間のことです。今の我々となんら変わらない。環境が揃えばそうなるんです。
ギャンブルで流通する貨幣
繰り返しになりますが、我々は価値の伴わない貨幣の運動にも快感を感じます。貨幣は運の流通に伴ってギャンブラーの間をただ虚しく行き来するだけのものになるのです。
阿佐田哲也氏の言葉を引用します。これもギャンブルの本質を言い得てます。
勝負が終わるまでは金を金だと思ってはいけない。鼻っ紙だと思わねばならない。
ギャンブルに勝つことによって得られる快感というものは、格別です。
それなりに努力はしますが、価値を生む行為をせずして金が増える。
だからかもしれませんが、あたかも自分が全能であるかのような高揚感をヒトに与えます。
ギャンブルにかけている時間=生命は閉じた世界での運の流通に消費されていくのです。そして勝ち越すには自分以外の人の運が下がることを望むようになるんです。
カジノ解禁を推す人の言い分とは
再び国内カジノ解禁法案を推し進める根拠として挙げている細田幹事長のポイントを見てみましょうか。
- 所得を上げて経済発展
- カジノは観光施設の一つ
永く賭博が禁じられている社会で、なかでもエリート街道を歩き、その毒に晒されることのなかった人の考えそうなことですね。
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